北支部 2025年秋のバスハイク開催報告

日本女子大学 第1回生 正田淑さんとの出会い

「桜楓会はお花の会ですか?お茶の会ですか?」「いえ、日本女子大学の同窓会の名前です」

「それでしたら佐野市には日本女子大学出身の偉人がおりますよ」

この会話が思いがけない正田淑(よし)さんとの出会いへのきっかけとなった。

北支部はバス旅行を恒例行事としている。今年は栃木県足利市と佐野市を、担当者小川節子さんが企画立案中、佐野市観光協会との電話での会話である。小川さんは早速、北区在住の片桐芳雄日本女子大学名誉教授にご連絡したところ、「日本女子大学学園事典(創立100年の軌跡)」に正田淑さんが載っており、以下の記載があることをお知らせ頂いた。

「英文学第1回生として入学。卒業時には6名となってしまった中の1人。卒業と同時に桜楓会教育部主任となり、英文学部と教育学部で指導。6年後コロンビア大学へ留学しMAの学位を得て、1924年の帰国後は、社会事業学部学部長として女子教育に努めた。女性解放運動にも情熱を注ぎ、全国投票のトップとして、1928年の汎太平洋婦人会議に参加し、日本女性の低い労働環境を報告した。ハワイで行われたこの会議には市川房江や日本女子大学学長井上秀も参加している」などなどが概略である。

なんと正田淑さんは佐野市生まれの、女子教育と女性の地位向上に生涯精力を注ぎ続けたパイオニアの先輩だったのである。

10月9日8時半 北支部は19名で栃木県へのバスハイクを開始した。車内で小川支部長から正田淑さんの紹介があった時、驚きと早くおめにかかりたい期待が参加者内に膨らむ。正田淑さんの地蔵像は正田家の菩提寺であった惣宗寺(佐野厄除け太師)にあった。同敷地内には足尾銅山鉱毒事件において、銅山操業停止を天皇に直訴した政治家田中正造の碑もある。

出迎えてくださった4人のボランティアガイドの方々は「正田家は佐野で隆盛を誇った鋳造所を営んでいたこと」、「6代目利一郎は栃木県初の私立銀行の創設者でもあり、淑はその孫。小学校まで佐野で裕福に暮らしていたこと」、「時代の流れで鋳造が廃れたため、正田家は惣宗寺の墓を終い、上京したが、篤志家河合梅さんが正田淑さんの地蔵像を惣宗寺に寄進したこと」「教育者として、女性の地位向上に貢献し続けた正田淑さんは、今でも佐野市ではゆかりの偉人として市民講座などに取り上げられ続けており、郷土の誇りの人であること」などをていねいに説明してくださった。思わぬご縁への感謝を込め、お礼としてボランティアの方々に桜楓会のクッキーを差し上げた。

「日本女子大学の成瀬学長は第1回生の卒業式に「明治維新は約50年前に男子の力でなされた。これからの50年間は女子の力で第2維新をめざしなさい。それはあなた方の肩にかかっているのだ」と卒業生を諭し、この校長の信念が正田淑の人生に大きく影響しました」遠藤康次さん(康次さんの叔父 遠藤勝次郎さんの妻が正田淑さんの妹 愛子さんというご関係である)が佐野市で行った講演のこの記録もあわせて皆様にご紹介したい。(こならの森118号記載)

世界遺産をめざして準備を重ねている足利学校や手入れの行き届いたフラワーパークも素晴らしかった。加えて成瀬学長の言葉を真正面から受け止め、女性の手での世の中の開拓に奮闘し続けた正田淑さんの軌跡を心に刻むことができた今年のバスハイク、何とも意義深いく忘れがたい旅となった。

桜楓会北支部 上山啓子

正田淑さんと共に
正田淑さんの地蔵像
あしかがフラワーパ-ク