文京支部講演会「『茅野雅子の歌』をめぐって」が開催されました
2026年7月26日(日)午後、文京支部の講演会「『茅野雅子の歌』をめぐって」が文京区地域活動センターにて開催されました。猛暑の中のリアル開催でしたが、20名ほどの支部会員が参加しました。
演者は、文京支部会員倉沢寿子さん(新14国)。倉沢さんは、岡野弘彦に師事され現在歌人としてご活躍ですが、この春『茅野雅子の歌』(2026,飯塚書店)を出版されました。講演会では、茅野雅子の年譜をたどりつつ、幼少時代のエピソードや人生の節目の作品を一首一首ご紹介くださり、詳細に解説をいただきました。当時の「明星」をはじめとする歌壇の人間模様を織り交ぜながらのお話しは、大変興味深く、歌で茅野雅子という女の一生を綴るという目論見に参加者一同引き込まれ、1時間があっという間に過ぎました。
明治期に日本女子大学校で学び、革新的な「明星」で与謝野晶子や山川登美子と並び称され三才媛といわれた雅子。今とは比べ物にならないほど家父長制の強い社会のなかで、また、戦争という大きな荒波に揉まれ翻弄されながら一人の妻、母として生き、苦悩し歌い続けた雅子の作品群から、同性としてあるときは共感し、また、女の深い苦悩を知りました。
伺うところによれば、在学中から茅野雅子の資料と歌の蒐集を、青木生子先生と共に積み重ねて来られたとのことです。年譜をはじめその一部を今回配布資料としてご披露くださり、格調高いお話をいただきましたこと、心よりお礼と感謝を申し上げたいと思います。倉沢さんのますますのご発展をお祈りいたします。(文京支部長 山田知子)
倉沢さんから「講演会を終えて」メッセージを寄せていただきました。
************************************
講演会を終えて 倉沢寿子
青木生子先生の「茅野雅子研究」が女子大創立六十周年を記念した「文学部紀要」に発表されたのは昭和三十七年、私が在学中のことでした。明治三十三年に短歌の革新を唱えて与謝野鉄幹が創刊した「明星」において、晶子、山川登美子と共に三才媛と呼ばれた歌人、茅野雅子の研究です。資料などに携わった私は、雅子が生涯に詠んだ歌を全て蒐集することが次の目的となりました。青木先生と共編の『茅野雅子全歌集』が完成したのは平成二十四年。五十年の歳月が過ぎていました。
圧倒的に男性の力が強かった時代にあって、「明星」から「スバル」「青鞜」へと発表の場を移しつつ文学の創作の力で世間の評価を受けてきた雅子は、二人の娘の母でもありました。女としての嘆き、また子供を失った母の悲しみも、人生の最後に夫に裏切られた衝撃も、全て歌になって残されています。
歌は人、人は歌。その感慨をもとに文芸誌に連載したのが『茅野雅子の歌』です。この本のご縁で、同窓の皆様に向かってお話させて頂いていると、ふと学生時代の研究発表の時のような懐かしさが心をよぎりました。「明星」創刊の翌年に創立された日本女子大学校に、鉄幹の勧めで登美子と共に入学した時、雅子は二十五歳。一学年上の平塚らいてうは、この頃の女子大生はおばさんのような年齢の人が多かったと書いています。
明治三十八年、鉄幹が企画した、晶子、登美子、雅子の合著歌集『恋衣』が出版されました。この女性だけの歌集は注目を集め、たちまち売り切れて三版を重ねました。雅子の歌人としての人生はここから始まります。
しら梅の衣(きぬ)にかをると見しまでよ君とは云はじ春の夜の夢
「明星」で「白梅」と呼ばれた雅子の代表歌は、温厚なやさしさをたたえた恋の歌です。
女子大を卒業した雅子は、三歳年下の同人、茅野蕭々の熱烈な求婚を受け入れて結婚します。その時、雅子の詠んだ大らかな歌です。
日を抱くおほわたつみのよろこびに燃ゆるに似たり君をおもへば
ドイツ文学者として名高い蕭々だが、この時はまだ東京帝国大学の学生でした。二人は晩年ともに日本女子大の教壇に立ち、家を失った戦後は女子大の紫峯寮に住み、国文科の科長であった蕭々を雅子が助けていました。昭和二十一年、二人は前後して亡くなります。
後年、雅子は、自分の育った大阪の道修町について、「古い習慣や黴臭い趣味が私をとりまく空気を重たくしていた」と語っています。その雅子が当時最も新しいと言われた「明星」「スバル」「青鞜」において活躍しました。
「青鞜」に参加した時の、勢いある一首です。
時来れば蛹も繭を噛みて出づ吾等は古き世界よりとぶ
わが国の社会の大きな転換期明治の時代に、才能を開花させつつ懸命に生きた先輩の一人、茅野雅子を語る機会を頂き、深く感謝しております。

